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中二病(ちゅうに・びょう)。
名前のとおり、中学2年生の頃に発症しやすい「熱病のような病」とされているが、ご存知の方は少ないだろうと思う。
しかし、驚いたことにウェブ上のフリー百科事典ウィキペディアにも掲載されており、ごく一部には市民権を得ている言葉のようである。
ワタシがこの病を知るに至ったのは、2ちゃんねるの“まとめサイト”を検索していた時である。
この巨大掲示板は「便所の落書きのよう」と常に強い批判にさらされていて、また実際そのとおりなのであるが、時に、嘘か誠か、ダイヤモンドの原石のようにキラリと光る一連のコミュニケーションが成立することがあるようだ。
そういった原石は有志の手によって読みやすくまとめられ、“まとめサイト”に保存され、2ちゃんねらー以外の多数の閲覧者の間に網の目状に拡がってゆくこととなる。
映画やドラマにまでなった「電車男」はその好例であろう。
最近知ったのだが、2ちゃんねるでは中学生のことを
「厨房(ちゅうぼう)」
と呼ぶらしい。
むろん、「中坊」の漢字変換過程で生まれた用語だろうと想像がつくが、そうした蔑称を用いるような状況が特にネット上でしばしば展開されたのだろうということも、匿名性が保たれた文字だけの特殊な環境に思いを馳せればよく分かる。
思ったことを何でも書けるが、少しでも“隙”を見せれば見知らぬ大多数の人からモーレツな突っ込みが飛び交う。
その“隙”だらけの投稿者こそ、「厨房」…中学生に限らず、ガンダムでいえば
「坊やだからさ」
と揶揄の対象になる人々なのだ。
その厨房らに顕著な“勘違い的”思考方式が、掲示板への書き込みに収まらず、実生活の中に発現したものが「中二病」だ。
具体例をまとめたサイトがこちら。
http://www.geocities.jp/sittodesuka/
ワタシはこのサイトを読みながら、笑いに笑った。
笑い狂ったと言っていい。
ちなみにお気に入りのエピソードは「エン!」である。
ワタシも、劇薬や実験道具が保管され、怪しさと危険に満ちた(と思い込んでいた)理科室が大好きだった…。
このまとめサイトをこれほど楽しめたのは、ワタシの中に「共感」の念があったからに違いない。
そう。ワタシも、中二病だったのだ。
と言っても、教室で突然に奇声を発するような類の派手さはない。
主にマンガを元にしたバカバカし~い空想のほとんどは、少ないながら仲間を得て、幸いにもその仲間内でほそぼそと終始した。
やはり、身をよじるほど恥ずかしいのは、一人きりでやってしまった行為である。
当時、私が最も「カコイイ!」と思っていたのは、世界文学全集を読み漁ることであった。
余人が近づかない図書館のその一角にうっとりとした表情で眺め入り、ケース入りの分厚い1冊を手当たり次第に借りては、10分間の短い休み時間でさえ食い入るように読んでいた。
もしワタシが教師なら、こんな生徒にはなるべく関わりたくない感じである。
周りでは男子どもが走り回って騒々しいし、人目を気にしたそんなポーズでちゃんと頭に入るはずもないのだが。
そういえば、そんなワタシに対抗してかどうか知らないが、「一度に2冊でも3冊でも読める」と、机に数冊の本を並べ、それぞれ1ページずつだか1行ずつだか同時に読んでいるお友達もいた。
その子は速読自慢でもあり、ワタシも「○○ちゃんはすごい」と宣伝してはいたが、内心、ロクな読み方じゃないとせせら笑っていた。余談。
もちろん、時間も情熱も共に豊富だったあの頃に読めて本当に良かった、と今考えても大満足な本もある。
それは、いい。
問題は、内容はさることながらタイトルさえ覚えていないのに、なぜか必死で読んでいた“あの”本である。
世界文学全集の1冊だった“あの”本は、どういうわけか、そりゃあもうとびきり、難読漢字が多かった。
1ページ中1つは読めない漢字があったほどだったと記憶している。
例えば、「恰も(あたかも)」、「畢竟(ひっきょう)」、「況や(いわんや)」、「剣呑(けんのん)」など…読み方が分かっても意味が分からんじゃないか!という言葉もしばしば。
不親切な訳者がいたものである。
そこで常に広辞苑を横に置いて読んでいた訳であるが…。
やっちゃったのです。
その難読漢字ひとつひとつが載ったページに、
「次にこの本を読む方へ…」
とお手製の“解説しおり”を挟んでしまったのです。
あー恥ずかちぃなあ、もう。
お節介にも、読み方と意味をいちいち書き込んで残してあげた訳だ。
イヤらしいところは、微妙なムズカシさの漢字にはしおりを挟まず、「この程度ならワタシは読めた」という事実(虚栄?)を伝えようとしたことである。
あぁーーってムズ痒くなる気持ち、分かってくれるだろうか。
そんな小細工が後世の誰かに伝わると思い込んでいる逞しい妄想力に、身をよじって赤面してしまうのである…。
“あの”本は、一体、なんという文学作品だったのであろうか…。
そして、お手製しおりは、今も残っているのだろうか…。
本を開いた誰かに、「中二病」とはやし立てられながら、破棄されたのであろうか…。
まさかとは思うが、自分の名前を書き残すという愚行に及んでいないかどうか。
今となっては、その1点だけが非常に気がかりなのである。
名前のとおり、中学2年生の頃に発症しやすい「熱病のような病」とされているが、ご存知の方は少ないだろうと思う。
しかし、驚いたことにウェブ上のフリー百科事典ウィキペディアにも掲載されており、ごく一部には市民権を得ている言葉のようである。
ワタシがこの病を知るに至ったのは、2ちゃんねるの“まとめサイト”を検索していた時である。
この巨大掲示板は「便所の落書きのよう」と常に強い批判にさらされていて、また実際そのとおりなのであるが、時に、嘘か誠か、ダイヤモンドの原石のようにキラリと光る一連のコミュニケーションが成立することがあるようだ。
そういった原石は有志の手によって読みやすくまとめられ、“まとめサイト”に保存され、2ちゃんねらー以外の多数の閲覧者の間に網の目状に拡がってゆくこととなる。
映画やドラマにまでなった「電車男」はその好例であろう。
最近知ったのだが、2ちゃんねるでは中学生のことを
「厨房(ちゅうぼう)」
と呼ぶらしい。
むろん、「中坊」の漢字変換過程で生まれた用語だろうと想像がつくが、そうした蔑称を用いるような状況が特にネット上でしばしば展開されたのだろうということも、匿名性が保たれた文字だけの特殊な環境に思いを馳せればよく分かる。
思ったことを何でも書けるが、少しでも“隙”を見せれば見知らぬ大多数の人からモーレツな突っ込みが飛び交う。
その“隙”だらけの投稿者こそ、「厨房」…中学生に限らず、ガンダムでいえば
「坊やだからさ」
と揶揄の対象になる人々なのだ。
その厨房らに顕著な“勘違い的”思考方式が、掲示板への書き込みに収まらず、実生活の中に発現したものが「中二病」だ。
具体例をまとめたサイトがこちら。
http://www.geocities.jp/sittodesuka/
ワタシはこのサイトを読みながら、笑いに笑った。
笑い狂ったと言っていい。
ちなみにお気に入りのエピソードは「エン!」である。
ワタシも、劇薬や実験道具が保管され、怪しさと危険に満ちた(と思い込んでいた)理科室が大好きだった…。
このまとめサイトをこれほど楽しめたのは、ワタシの中に「共感」の念があったからに違いない。
そう。ワタシも、中二病だったのだ。
と言っても、教室で突然に奇声を発するような類の派手さはない。
主にマンガを元にしたバカバカし~い空想のほとんどは、少ないながら仲間を得て、幸いにもその仲間内でほそぼそと終始した。
やはり、身をよじるほど恥ずかしいのは、一人きりでやってしまった行為である。
当時、私が最も「カコイイ!」と思っていたのは、世界文学全集を読み漁ることであった。
余人が近づかない図書館のその一角にうっとりとした表情で眺め入り、ケース入りの分厚い1冊を手当たり次第に借りては、10分間の短い休み時間でさえ食い入るように読んでいた。
もしワタシが教師なら、こんな生徒にはなるべく関わりたくない感じである。
周りでは男子どもが走り回って騒々しいし、人目を気にしたそんなポーズでちゃんと頭に入るはずもないのだが。
そういえば、そんなワタシに対抗してかどうか知らないが、「一度に2冊でも3冊でも読める」と、机に数冊の本を並べ、それぞれ1ページずつだか1行ずつだか同時に読んでいるお友達もいた。
その子は速読自慢でもあり、ワタシも「○○ちゃんはすごい」と宣伝してはいたが、内心、ロクな読み方じゃないとせせら笑っていた。余談。
もちろん、時間も情熱も共に豊富だったあの頃に読めて本当に良かった、と今考えても大満足な本もある。
それは、いい。
問題は、内容はさることながらタイトルさえ覚えていないのに、なぜか必死で読んでいた“あの”本である。
世界文学全集の1冊だった“あの”本は、どういうわけか、そりゃあもうとびきり、難読漢字が多かった。
1ページ中1つは読めない漢字があったほどだったと記憶している。
例えば、「恰も(あたかも)」、「畢竟(ひっきょう)」、「況や(いわんや)」、「剣呑(けんのん)」など…読み方が分かっても意味が分からんじゃないか!という言葉もしばしば。
不親切な訳者がいたものである。
そこで常に広辞苑を横に置いて読んでいた訳であるが…。
やっちゃったのです。
その難読漢字ひとつひとつが載ったページに、
「次にこの本を読む方へ…」
とお手製の“解説しおり”を挟んでしまったのです。
あー恥ずかちぃなあ、もう。
お節介にも、読み方と意味をいちいち書き込んで残してあげた訳だ。
イヤらしいところは、微妙なムズカシさの漢字にはしおりを挟まず、「この程度ならワタシは読めた」という事実(虚栄?)を伝えようとしたことである。
あぁーーってムズ痒くなる気持ち、分かってくれるだろうか。
そんな小細工が後世の誰かに伝わると思い込んでいる逞しい妄想力に、身をよじって赤面してしまうのである…。
“あの”本は、一体、なんという文学作品だったのであろうか…。
そして、お手製しおりは、今も残っているのだろうか…。
本を開いた誰かに、「中二病」とはやし立てられながら、破棄されたのであろうか…。
まさかとは思うが、自分の名前を書き残すという愚行に及んでいないかどうか。
今となっては、その1点だけが非常に気がかりなのである。
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