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ありえない。
まままさか、このワタシが、仕事の上でこんな初歩的なミスを侵そうとは…。
どんな小さな仕事でも、いつも真面目に一生懸命。
それがワタシのスタイルだった…はずなのだが。
油断大敵。
そう。
今回ばかりは、油断してしまった。
人任せにして、安心してしまったのだ。
事は、2時間ほど前に遡る。
今日は、陰鬱な取材日である。
この頃、ワタシはライターという職業をしながらも、人に話を聞くのが苦手だった。
いや、こちらが聞きたい話を上手にまとめて話してくださるのなら喜んで聞くのだが、
「取材?かったりぃな」的な相手から話を引き出すテクニック
…もちあげたり、なだめすかしたり、いかにも感心したフリをしたり…が必要なケースや、
自分勝手に話を広げてしまうヤツの方向修正をするテクニック
…気分を害せず話題を移したり、取材時間内に聞かねばならんことをどうにか引き出したり…といった、
要はこちらの思惑を理解してくれないマイペースな輩との対話技術に、全く自信がないのだ。
自信がないので、やる気が出ない、という訳である。
取材相手によっては、「ぜひ、ウチの宣伝を!」と待ちかねて対応してくれる方も当然いるので、
この場合はこちらも立場よろしく、気分もよろしく、まずスムーズに事が運ぶ。
先方も、宣伝したい内容を自ら考えて用意してくれていることが多かったりする。
非常に、やりやすい。筆も運ぶというものだ。
対して、こちらの意図を理解してくれない取材相手というのは、つまりワタシらの媒体で宣伝する必要性を感じていない人々、ということになる。
既に、有名だからだ。
むしろ、あらゆる媒体がこぞって話題づくりのために「取材させてくださいっ!」と押しかけてくる立場である。
これは、非常に、やりにくい。気の小さいワタシなどにとっては、本当に、やりにくい。
相手は有名人である。
直接お会いして、話ができるというのだから、普通の感覚なら「超ラッキー」とばかりに喜ぶのではあるまいか。
無論、そういう気持ちもなくはないが、嬉しい気持ちよりなぜか
「申し訳ないっ!」
「貴重なお時間をこんな詰まらない取材の相手をさせてしまいっ!」
という気持ちが先に立ってしまうのが、ワタシというパーソナリティなのである。
この貧乏臭い根性を、世間では“負け犬”と呼ぶのであろうか…。
おまけに、ワタシは殆どの有名人に興味がない。
この会社に勤めていた頃、フロア中が大騒ぎになるほどの大物俳優から直接電話がかかってくるという事件があった。
「ちょっとちょっと、○○から電話あったんやで!」
と言われ、さすがのワタシもやや聞き覚えのある名前だったので、驚いた風を装い、
「ええーー…(??)」
と反応したものの、やはり親しい相手はワタシの表情から「??」の部分を見抜くもので、
「アンタ…もしかして、知らん?」
「・・・・・・はい・・・・・・」
このように、名前と顔が一致しない有名人は、今でも多数存在している。やばい?
他にも、同僚のJ嬢とNHKに取材に行った時のこと。
待ち時間の間、J嬢がしきりに目配せをして合図を送ってくる。
「え?え?」
と言いながらキョロキョロするも、そこには派手な格好をしたオジサンが座っているだけである。
オジサンは、全体に、紫色に輝いている。
しかし、それだけである。
「だぁ~かぁ~らぁ~!」
しびれを切らせ始めたJ嬢、最終的には
「もう、いいわ…」
とあきらめのため息をつき、話題終了。
聞けば、そのド派手オジサンこそが、なんとかいう有名人だったらしい。
ああ、もう、教えてもらっても忘れちまいましたよごめんなさい…。
こんな調子なので、仕事で回ってくる取材相手は、まず9割9分、何の関心も知識もない相手である。
付け焼刃で知識を詰め込み取材に臨むも、不幸なことに、ワタシという人間は感情がよーく顔に出るタイプなので、
興味がないこと、自信がないことが、相手に筒抜けのバーレバレなのだ。
そこで強気に出ることができればまだしも、どんどん弱気になり、焦りが昂じてゆく…。
焦れば焦るほど、一夜漬けの知識はスカーーッとまあ気持ちよく頭から抜け落ちてゆく。
そうすると、間をつなげとばかり、言わなくてもいいことを口走ったりしてしまう。
ある映画監督の取材には、事前の試写会に遅刻して観ることができず、ビデオを鑑賞して臨んだのであるが、
準備不足からくる自信のなさと緊張のあまり、開口一番、
「実は映画館で見れなくてビデオでしか観てないんですが」
!!!!
…言った直後に激しい後悔が体を貫いた。
そこは嘘でも、素晴らしい映画だったということだけを伝えるべきであろう…。
この監督は優しい人だったので
「そうですか、ぜひ、スクリーンで観てくださいね」
で済んだのであるが、第一印象を著しく損なったことは、まず間違いない。
ちなみに、この映画はビデオでしか観てなくとも本当に素晴らしい作品でした。
監督、これからの作品も、期待してます(涙)
また、せっかく相手が話題を振ってくれたとしても、頭が空っぽになっているせいで、
「はあ」とモニャモニャした相槌だけで話が終了したり、
「えへへ」と笑ってごまかしたり、
まるで話が膨らまない。
だんだん、まるで自分が痴呆になったかのように感じてくる。
悪夢だ。
あのジャズシンガーの取材なんて…思い出したくもない。
詳しくは、言わないが。
ジャズの世界は、思った以上に深いんだね…ということだけは、身にしみて分かった。
このように、数度にわたる失敗経験により、すっかり有名人の取材に対してナーバスになっていたのだが、
この仕事は毎月のように巡ってくる。
そして、今回の取材は、もう2時間後に迫っている。
(つづく)
さて、安物の鎌を振るいはじめて数十分。
新居の庭は、まず15畳以上はあろうという広さで、問題の雑草は特に、子どもの頃はよく手を切って痛い思いをさせられた“カヤ”が中心ときている。
カヤが生えた庭なんか、まともなお宅では見たことがない。
カヤというのはたいてい、ススキが生えるような空き地に群生するものと相場が決まっている。
いくら、いつまでも住む家でないといったって、これではみっともなさすぎる。
少なくとも、“ガーデン”というカタカナで呼べるような代物では、ない。
ここまで状況が悪いと、かえってやる気が湧くものである。
突然の人間の襲来に驚いたトノサマバッタにショウジョウバッタが飛び交う中を、いろんなポーズであらゆる角度から鎌を振るったりしてみる。
顔にはうっすら笑顔さえ浮かんでいるから、どこか怪しい。
しかし、この調子ではいつ刈り終わるのか、まるで見当もつかない。
と、その瞬間、背後に春風のように涼しげな声がした。
「あらあらあら~、草刈ってるの?そりゃ大変じゃろ?」
顔を上げるとそこにはいつの間にか、ふっくらツヤツヤの健康そうな顔に優しい表情を浮かべた、50代くらいと見えるおばちゃんが立っていた。
聞けば、真向かいの明るいお宅に娘さん一家と一緒に住んでいるという。
「奥さん1人じゃ、無理じゃあ」
やばいご近所さんだ、とやや身を固くしながら、いや~すごい雑草ですね、でもまあなんとかなるでしょナハハ、などと言いながら顔にうすら笑いを貼り付けて刈り続けるワタシ。
引越しのご挨拶も、そこは最近の若者らしく全くしていなかったので、この機会を利用してややどもり気味の自己紹介なんぞを済ませる。
話が尽きれば人は去ってゆくもの…
そう考えていた私は、ここの人たちの親切っぷりを甘く見すぎていた、と思う。
「奥さん、やっぱり無理じゃ。うちもいつも、隣の○○さんに刈ってもらってるのよ。言うてきてあげるから、ね?」
いやいや~、そんなの悪いですって、自分でやりますって、とかなんとか焦っているうちに、はす向かいから肩掛け式の自動草刈機をかついだ人の良さそうなおっちゃん登場。
年の頃は60代と見える。
草刈機はそれなりに重そうだったので、ますます慌てたワタシは、うわぁ、じゃあ、それ、すいませんけど貸してくださいっ、やってみますから~、と訴えた。
しかしおっちゃんは逆に心外そうな表情で、草刈機を手放す様子はない。
「いいのいいの、○○さんは、好きでやってるんだから~。やってもらったらいいとよ!」
ポカンと口を開けて見守るうちに、あれよあれよと雑草どもが草刈機のウイーーーンというエンジン音と共に刈り取られてゆく。
おばちゃんが言うとおり、おっちゃんはご近所の庭仕事を手伝うのが趣味だそうで、
「ずっとこの庭をどうにかせんと、と思ってたんですよ。けど、人ん家だし、勝手にする訳にもいかんしね?」
と、今度は枝があっちこっちに張り出していた垣根の剪定までやり始めた。
すると垣根の奥に、アシナガバチの巣を発見!
おっちゃんが殺虫剤を取りに家に戻る。
今度は、別のおばちゃんを連れて出てきた。
両手にキンチョール(大)を1缶ずつ握りしめている。おっちゃんの奥さんである。
「ひゃあ~こりゃ大きい巣じゃ、危ない、危ない!」
と、右手と左手のキンチョールを同時に目一杯プッシュしながら大騒ぎだ。
向かいのおばちゃんは
「二刀流じゃねぇ~」
とニコニコしている。
そうこうしているうちに、隣の畑の持ち主である別のおばちゃん登場。
「みんなええ人じゃろ?うちの畑も、いつもキレイにしてもらってるんよ」
更には、今やどこの人だったのかも分からないおっちゃん登場。
「この庭は、最初はきれいな芝生だったんだけどねえ、もう雑草にやられて、元に戻すのは無理じゃないかねえ」
しかし、はす向かいのおっちゃんはやる気満々で
「人が勝つか、草が勝つか、じゃね。草を刈り続けとったら、そのうち、芝生が生きてくるよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・。
その後、冬から春にかけての草取りを怠けたため芝生はまだ蘇っていないが、
しびれを切らしたおっちゃん、おばちゃんが頃合を見てワタシを庭仕事へと誘い出す。
朝、ベッドの中で、草刈機の音が聞こえれば、その距離を耳で確かめる。
音が近いようなら、自宅の庭の可能性アリ!とベッドから飛び起きて馳せ参じる。
ご近所さんは、みんな早起きだ。
今では、家の裏手に畑がひと畝できている。
もちろんワタシはクワもスキも持っていないので、9割方がおっちゃんの作品である。
ワタシがパジャマのままでトマトやナスの様子を確かめに行く頃には、雨も降ってないのにその部分の土だけがしっとり湿っている。
すでに、水遣りが終わっているのだ。
玄関前には、ちょっとした花壇もできた。
メインで植わっているのは、おっちゃんのお宅にあった「ローズダリス」という木で、親切にも引っこ抜いて移植してくれた。
ワタシもワタシなりに、小さな木を買ってきてあったのだが、それは小さすぎるということで屋内でしばらく育てなさい、とのこと。
また、庭先でよく見かけるマリーゴールドの苗を買ってくれば、おっちゃんがかのローズダリスの周りに見事な等間隔で植えてくれた。
まるでクリスマスツリーのようだ。
どうやら、この「ガーデニング」について、あまりワタシの自由は残されていないらしい…。
昨日は、空いたスペースにこっそりミニバラを植えてみた。
おっちゃんは、花にはあまり関心がないようで、ミニバラちゃんへの今朝の水遣りはこの手で実行できた。
それから、「そんな高いのもったいないよ」と言われながらも、雑草避けにと生垣の下に15kg398円の玉砂利を敷いてみた。
うむ、美しい。
ふと気が付けば、裏の窓から畑の野菜をウキウキしながら覗いている自分がいる。
パソコンやゲームからは得られない何かが、そこにあるから…かもしれない。
一時期、ちょっとセレブな奥様や、一人暮らしの清楚な(?)女性なんかを対象として、本に雑誌にTVにともてはやされ、今なお人気が続いているステキな趣味だ。
もちろん、ワタシには興味関心、一切ござらぬ。
なぜって?
考えてもみてほしい。
おじいちゃんの畑で青虫にまみれて収穫を手伝い(ほんの時々ね)、野山の雑草をちぎっては食べ(これはしょっちゅう)、下生えに群がる昆虫やカエルを採取しては嫌がられ(これもしょっちゅう)、かたつむりレースに興じてきた(梅雨時の風物詩はコレ)…
そんなワタシが、なぜ今更、「ガーデニング」なんてカタカナになったくらいで「シャレた趣味だわ~」なんて感心することができようか?
雑草や昆虫と戯れたこともない、海にはスーパーの切り身が泳いでいると思い込んでいる都会モンのくせに、なーにがガーデニングじゃい、ってなもんである。
…と、御託を並べてみたが、要は「めんどくさーい」のだ。
パソコンや本や、TVにマンガがあれば、1日なんてあっという間じゃない。
一体全体、どうしてわざわざ、植物なんぞに金子に手間暇かけなきゃならんのか?
こちとら、観葉植物の水やりで目一杯、精一杯だちゅうの。
自然たっぷりの九州の地に引っ越すにあたって、周りの友人知人たちからもこの「ガーデニング」が満喫できるんじゃなあい?と勧められたものだ。
そういえば、事務所中から忌み嫌われていた、前に勤めていた会社の女部長にも、
「あらあ、いいわねぇ、野菜畑つくりなさぁ~いよぅ~? 娘つれて体験学習に行くわぁ、オーッホホホ」
と高らかに笑いかけられた。
この女部長、「パワハラ」という言葉を地でいく強烈な個性を持っており、一緒に仕事をしていると手には脂汗、額に冷や汗、話す言葉は打ち震え…その破壊力はゴジラも顔負けという人物なのだが、なんとワタシの直属(専属?)の上司だった。
ようやくその呪縛から逃れられると思っていた矢先だったので、上の台詞を聞かされた時には顔で笑って心で泣いて、葛藤ここに極まれりといった胸の裡だった。
トラウマが強すぎて長くなったが、これは余談。
もちろん退社後、彼女とは一切の連絡を断っている。ホッ。
閑話休題。
新天地で入居した物件は、広い庭付きの2階建て一軒家。
というと聞こえがいいが、その実、築20年になろうかという、ところどころにガタが出始めたお宅だ。
(これでも、不動産屋を巡った中では一番、良い方だったのだが。)
猫の額のような都会の地に住んでいる人ならきっと憧れるであろう、ガーデニングし放題のはずの広い庭も、これまで住んだ人たちが手入れを怠ったのだろう、9月に本州から渡ってきてみれば、夏を越えた雑草がモッサモッサと腿にも届かんばかりに生い茂っている。
これにはさすがのワタシも、
「ここは破れ家か!?」
とうんざり。
不動産屋に電話しても「一度刈ったんですがねぇ…雑草はすぐ生えますからねぇ…仕方ない」で終わり。
泣く泣く、ホームセンターで安い鎌を購入し、草負けしない完全装備に身を固め、
「カヤよドクダミよハハコグサよ、いざ尋常に勝負!」
(つづく)
「普通は誰でも帰るものだ!」と、どういうわけか頭から決めてかかって疑わなかったようで、毎年律儀に餅をつき、朝もはよから初日の出を見てきた。
が、よくよく考えてみれば、ワタシ以外の姉たちは海外旅行に行くだの何だので帰っていない年もあるじゃないか。
最近ではその傾向が顕著になり、正月だというのに家族が揃わない。
まあ、それぞれ大人になって家庭を持っているのだから、当たり前なのだが。
姉たちがいないと何が困るって、ヒマなのである。
ヒマを持て余して食っちゃ寝、食っちゃ寝で太る一方なのである。
あれですよ。
正月といえば、家族みんなで“大ゲーム大会”を行うものと、相場が決まっているではないか!(ですよね皆さん?)
花札に百人一首、カブに麻雀に人生ゲーム…。
なのに、メンツが揃わない。
だからとってもヒマなのだ。
この場合、「家族で」ということが非常に大切である。
なぜならば!
友人や親戚相手だと
「勝つまで続ける」
とか、
「負けて大いにキレる」
とか、さすがにそんな子どものような真似はできないからだ。
そう、“大ゲーム大会”の醍醐味は、「いかに敵愾心をむき出しにして闘うか」という点にある。
もちろんそんな真の闘士は、家族の中でも末っ子のワタシだけだったという記憶もまた、あるのだが。
最近では、やっと人が集まったと思って声をかけても、ノッてこなかったりする。
まったく、哀しいことである。
衰退する一方の“大ゲーム大会”…そんな諦観ただようワタシの前に、今年、キラ星のごとく颯爽と現れた少年がいる。
6つになったばかりの甥っ子である!
彼は外国暮らしなのだが、なんと花札と、そして百人一首の札を使って行う「坊主めくり」を知っているというのだ。
この「坊主めくり」、我が家では独特のローカルルールを採用している。
全国共通と思われる基本ルールは、
①男性札が出たらそのまま手札にする
②坊主札が出たら手札を場に返上する
③姫札が出たら場に出ている札を全て手札にできる
というものだが、地方により扱いが異なることが多いのが「天皇札」だ。
カラフルな台座にお座りあそばしている天皇さん、ワタシたちはこの札が出たらどうするかというと、お互いの手札を「奪い合う」のである。
これが、非常にスリリングで楽しい!
めくった札が天皇札だと分かった瞬間、自分の手札を片手で守り、すかさずもう片手で敵の札をさらいにかかる。
判断力と瞬発力が必要とされる高度な技である。
更に興奮をかきたてるのが「おてつき」ルールだ。
間違って誰かの手札を奪ったり、自分の手札を守ったりすると、全ての手札を返上しなければならない。
当然の流れとして、あたかも天皇札をめくったかのように振舞う技巧派も登場する。
巧妙な演技のかけ合いとなる訳である。
そのため、全員が目を皿のようにして、めくる瞬間の山を注視する。
天皇札の中には、なぜか台座の半分が簾らしきもので隠されて見えづらい絵もあるので気を許せない。
そこには、普通の坊主めくりにはない緊張感がヒシヒシと漂っている。
どうやら甥っ子もこのゲームがお気に入りのようで、日本のお友達にもしきりに説明しながら勧めてまわり、用意周到にも持ち歩いていた百人一首で対戦が叶えられ、大いに喜んでいた。
彼らの対戦を見ていて面白かったのが、昔のワタシたちの反応がそっくりそのまま、母から子へと伝えられていたことだ。
その代表は「蝉丸」。
坊主の中でも異例のその容貌、その名前、そして覚えやすい歌(「これやこの…」)により、めくって出ればいつも大騒ぎの大興奮だった彼なのだが、やはり甥っ子も登場するたびに「あっ、セミマルだぁ~いやぁねぇ」と、半分喜んでいる。
そして「うなじ」。
坊主の中に数枚、後ろを向いて生っちろいうなじをさらしている輩がいるのだが、これは非常に蔑まれており、めくってしまった者は「うなじ坊主~」とバカにされるのである。
やはり、同じ反応を示す甥っ子。
試しに、甥っ子とその男友達に姉2と混じって対戦してみた。
姉2は天皇札での奪い合いが昔から得意であったが、その腕は今も衰えていない!
子ども達をよそに、姉妹の戦いの火花が散る。
父親も参加したが、めくる時にいつもズルをする。
ズルなのか不器用なのか判然としないが、めくったカードが他のメンツに全然見えないのだ!
お決まりのように「もう~、ちゃんとめくってよ!」と(主にワタシの)怒声が飛ぶ。
全員に等しく見えるよう、すばやくクルリと山の上で札を返すのが、正しい闘士の姿である。
姉1は長女だからなのか、年々、ゲームに熱くない人になってしまったのだが、この時は珍しく参加。しかしブランクが大きすぎたのか非常に動きが鈍くなっている。
すかさず手札を奪いつくし、更には天皇札をめくったフリをして騙し討ち、見事におてつきをする姉1!爽快すぎる闘いにすっかり夢中になったワタシは、相手にならない子ども達を完全に無視。
気づけば、甥っ子と友達が、どっちが先に手をついたかで言い争っている。
裁定を求められたワタシは大いに弱り、
「あ…ごめん、どっちが速いか、(全然)見てなかったよ…」
と打ち明けた。
そろそろ、大人になった方がいいのであろうか。
名前のとおり、中学2年生の頃に発症しやすい「熱病のような病」とされているが、ご存知の方は少ないだろうと思う。
しかし、驚いたことにウェブ上のフリー百科事典ウィキペディアにも掲載されており、ごく一部には市民権を得ている言葉のようである。
ワタシがこの病を知るに至ったのは、2ちゃんねるの“まとめサイト”を検索していた時である。
この巨大掲示板は「便所の落書きのよう」と常に強い批判にさらされていて、また実際そのとおりなのであるが、時に、嘘か誠か、ダイヤモンドの原石のようにキラリと光る一連のコミュニケーションが成立することがあるようだ。
そういった原石は有志の手によって読みやすくまとめられ、“まとめサイト”に保存され、2ちゃんねらー以外の多数の閲覧者の間に網の目状に拡がってゆくこととなる。
映画やドラマにまでなった「電車男」はその好例であろう。
最近知ったのだが、2ちゃんねるでは中学生のことを
「厨房(ちゅうぼう)」
と呼ぶらしい。
むろん、「中坊」の漢字変換過程で生まれた用語だろうと想像がつくが、そうした蔑称を用いるような状況が特にネット上でしばしば展開されたのだろうということも、匿名性が保たれた文字だけの特殊な環境に思いを馳せればよく分かる。
思ったことを何でも書けるが、少しでも“隙”を見せれば見知らぬ大多数の人からモーレツな突っ込みが飛び交う。
その“隙”だらけの投稿者こそ、「厨房」…中学生に限らず、ガンダムでいえば
「坊やだからさ」
と揶揄の対象になる人々なのだ。
その厨房らに顕著な“勘違い的”思考方式が、掲示板への書き込みに収まらず、実生活の中に発現したものが「中二病」だ。
具体例をまとめたサイトがこちら。
http://www.geocities.jp/sittodesuka/
ワタシはこのサイトを読みながら、笑いに笑った。
笑い狂ったと言っていい。
ちなみにお気に入りのエピソードは「エン!」である。
ワタシも、劇薬や実験道具が保管され、怪しさと危険に満ちた(と思い込んでいた)理科室が大好きだった…。
このまとめサイトをこれほど楽しめたのは、ワタシの中に「共感」の念があったからに違いない。
そう。ワタシも、中二病だったのだ。
と言っても、教室で突然に奇声を発するような類の派手さはない。
主にマンガを元にしたバカバカし~い空想のほとんどは、少ないながら仲間を得て、幸いにもその仲間内でほそぼそと終始した。
やはり、身をよじるほど恥ずかしいのは、一人きりでやってしまった行為である。
当時、私が最も「カコイイ!」と思っていたのは、世界文学全集を読み漁ることであった。
余人が近づかない図書館のその一角にうっとりとした表情で眺め入り、ケース入りの分厚い1冊を手当たり次第に借りては、10分間の短い休み時間でさえ食い入るように読んでいた。
もしワタシが教師なら、こんな生徒にはなるべく関わりたくない感じである。
周りでは男子どもが走り回って騒々しいし、人目を気にしたそんなポーズでちゃんと頭に入るはずもないのだが。
そういえば、そんなワタシに対抗してかどうか知らないが、「一度に2冊でも3冊でも読める」と、机に数冊の本を並べ、それぞれ1ページずつだか1行ずつだか同時に読んでいるお友達もいた。
その子は速読自慢でもあり、ワタシも「○○ちゃんはすごい」と宣伝してはいたが、内心、ロクな読み方じゃないとせせら笑っていた。余談。
もちろん、時間も情熱も共に豊富だったあの頃に読めて本当に良かった、と今考えても大満足な本もある。
それは、いい。
問題は、内容はさることながらタイトルさえ覚えていないのに、なぜか必死で読んでいた“あの”本である。
世界文学全集の1冊だった“あの”本は、どういうわけか、そりゃあもうとびきり、難読漢字が多かった。
1ページ中1つは読めない漢字があったほどだったと記憶している。
例えば、「恰も(あたかも)」、「畢竟(ひっきょう)」、「況や(いわんや)」、「剣呑(けんのん)」など…読み方が分かっても意味が分からんじゃないか!という言葉もしばしば。
不親切な訳者がいたものである。
そこで常に広辞苑を横に置いて読んでいた訳であるが…。
やっちゃったのです。
その難読漢字ひとつひとつが載ったページに、
「次にこの本を読む方へ…」
とお手製の“解説しおり”を挟んでしまったのです。
あー恥ずかちぃなあ、もう。
お節介にも、読み方と意味をいちいち書き込んで残してあげた訳だ。
イヤらしいところは、微妙なムズカシさの漢字にはしおりを挟まず、「この程度ならワタシは読めた」という事実(虚栄?)を伝えようとしたことである。
あぁーーってムズ痒くなる気持ち、分かってくれるだろうか。
そんな小細工が後世の誰かに伝わると思い込んでいる逞しい妄想力に、身をよじって赤面してしまうのである…。
“あの”本は、一体、なんという文学作品だったのであろうか…。
そして、お手製しおりは、今も残っているのだろうか…。
本を開いた誰かに、「中二病」とはやし立てられながら、破棄されたのであろうか…。
まさかとは思うが、自分の名前を書き残すという愚行に及んでいないかどうか。
今となっては、その1点だけが非常に気がかりなのである。